龍華堂


西陣の長屋町家が表舞台に登場



 ここが、全ての始まりとなった長屋町家である。わたしが誘惑したこはり小針たけし剛が一ヶ月かかって掃除、改修をした空き家だ。
 彼の入居に際しては、わたしや民画絵師のいちのせ市瀬とし俊はる治などが資金援助し、弟や友人の協力を得て、あの、すごい空き家がよみがえったのだ。
そのころは、何かが始まる予感めいたものはなかったので、記録写真などは撮らなかった。だから、あの想像を絶する惨状は、わたしたちの記憶の中にしかない。板塀に張り付いていた蔦の一部を玄関前にモニュメントとして飾ってあるのが、唯一の痕跡である。
 裏庭のゴミだけでも二トントラック四台分。雑草は、部屋の中まで繁殖し、雨が漏り、蔦が絡まっているという惨状。
 綺麗になるまで嫁さんには見せなかったという彼の心配りがわかるような気がする。たいていの女性なら、見ただけでいやになるはずだ。
 改修中も近所では、「物好きなやつもいるものだ」と、評判だったらしい。
おかげで、近くの施設に取材に来た記者の目にとまったのである。
 そのとき、たまたま、わたしが調査をした鍾馗さんデーターを彼に見せていたものだから、両方が注目されることとなった。
今では、鍾馗さんと言えば、だれでも知っている京都の町家パーツだとわかるが、当時は、まったく無名の存在だった。当時の観光協会に問い合わせても「知らない」という答えが返って来たというほどだ。
 町家にいたっては、それこそ中京区の大きな商家だけが注目されていて、庶民とはかけ離れた存在だった。
 そこに西陣の長屋町家が表舞台に登場してきたのである。
 家賃が安いこともあるのだろうが、放置されていた町家の活用が報道された途端、入居希望の問い合わせ電話が鳴りっぱなしになった。
小針剛は、その電話の対応に忙殺されて、ついに、空き町家を見つけて入居した体験説明会を開くことになったのである。
そこで名付けた会の名前が「にしじん西陣かっせいか活性化じつ実けんち顕地をつくる会」(通称・ネットワーク西陣。後の町家倶楽部ネットワークに継承される)である。
 西陣の町家は、織屋建ちといって、裏の土間に織り機が設置されていて、職住一体の住まいだったため、その名残を残した町家は、ものづくりをするアーティストにとって絶好の住環境にあったのである。前の間を展示スペースにして、後ろの土間で制作する。中の間は居間となり、二階のある家は、そこが住まいとなる。通り庭があって、小さいながらも裏庭があったりする。もちろん、ネズミや虫もいる。現代人の大嫌いなゴキブリも徘徊する。が、それでも、若い世代を魅了し、「かっこいい」と言わせる何かが、そこにはある。
 町家の魅力は、一言では語れないが、単なるブームではなく、日本文化を育んできた秘密がそこにあるからだと思う。
 わたしと彼は、共同で龍華堂というレトロ雑貨を扱うお店を前の間につくり、お互いが大好きなアンティックを飾り、蒐集した布袋さんを祀る棚を設置したのだった。

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