紋屋町三上屋路地


職人長屋に多くの若者たちが住み着く



 この路地は、西陣を取り上げる時に必ずといってよいほど、語られる。また、写真になる風景でもある。
 ここは紋屋町といわれるが、その由来は、朝廷や大名の高級紋織物を織っていた西陣織りの頂点に立つ六家があったところからくる。その六家の筆頭は、紋屋井関家といい、現在は、この地を離れていて、現存するのは、紋屋三上家だけである。明治以前は、西陣織りの織り元は、法華宗(日蓮宗)でなければならず、毎月あった会合(講)のことを「お経講」といい、織り元から職人まですべてが参加していた。この「お経講」を「おへこう」と呼び慣わしたものが、いつの間にか、織り手職人の代名詞になって、「おへこさん」と言われるようになった。明治以降、「おへこさん」は、元意を失い、安い給料で織る職人さんに対する蔑視用語のようになってしまい、現在では使われなくなっている。
少し弁解しておくと、江戸時代に法華宗が織物を独占していたのではなく、鎌倉仏教最後の新興勢力であった法華宗は、現世利益と社会改革を旗印にしているので、必然的にこの世を謳歌する商人や芸術家や職人たちに支持されたのであった。そのため、西陣織りという芸術の世界にも法華宗が浸透したのである。現在も西陣には、その名残りとして法華宗の大きな本山が五寺もある。
 ここ数年、その職人長屋に多くの若者たちが住み着くようになった。もちろん、それらの橋渡しは、町家倶楽部ネットワークだ。偶然に空き町家があったことも要因の一部だが、その当時は、このように象徴的な三上家路地でさえ、空き家が目立つような状況だったのである。
 入居体験説明会は、三度にもおよび、それぞれ三十数名が参加した。その中で陶芸をしている女性と版画をしている女性が三上家路地の町家に住むことができたのだった。
そうなると、メディアは放っておかない。新聞社、放送局がそれらを追取材し、たった三、四軒の活用が大きな波紋を起こしたのである。
 不思議なことに、関西一円で放映された後も、説明会に集まってくる人は、二十代の若者が中心であった。芸術系大学が多くあるのが京都の利点かもしれない。ほとんどが、芸術系大学を卒業予定か、卒業後、京都にいついてしまった人たちだった。そして、説明会を通して自主的に、彼らを中心とした西陣空き家探検隊が組織されたのである。
 わたしたち西陣活性化実顕地をつくる会(後の町家倶楽部)は、不動産屋ではない、まして斡旋屋でもない。名前から西陣の活性化をもくろんでいると思われがちだが、実は、西陣の地場産業である繊維とは無関係な組織である。
第一号で入居して、モデルとなった小針剛などは、ぞくそく住民票を移してくる若者集団の頭目と間違われ、区役所に真意を説明しにいったほどだ。当時は、日本を震撼させた東京サリン事件などがあり、世間は、新興宗教にぴりぴりしていた時期でもあり、その上、仕掛け人の一人が寺の住職だということも背景にあったのかもしれない。