屋根編

かけこみ / むくり屋根 / 一文字瓦 / 卯建/ 屋根看板 / 軒吊り看板 / 浅瓦屋根 / 板葺屋根 / 煙出し / 鍾 馗


かけこみ/kakekomi

鬼門という言葉を聞いたことがあるだろうか。
表鬼門は東北の方向である。裏鬼門は南西の方向である。

京都は、風水によって造られたと言われている。いわるゆ陰陽道だ。「おんみょうどう」と読む。それと仏教や神道が結びついて、東北の鬼門除けには、比叡山延暦寺と鞍馬寺が配置され、裏鬼門には、男山八幡宮が配置された。もちろん、それ以外にも方位除けとして城南宮などが置かれたとされるが、とにかく、当時の人は、陰陽道を大変重用した。
西陣には、陰陽師安部晴明(おんみょうじあべのせいめい)を祖とする晴明神社がある。近くには、一条戻り橋という伝説の橋もある。(戻り橋伝説については別項目で書く)さて、かけこみとは、東北の方角に位置する土蔵などの壁の一角を削り取ってあることだ。

何故へこますのかというと理由は定かでないが、新築のビルでも家でも東北の方向には、屋上にお社が祭ってあったり、東北の角を石で囲い、塩を盛ってあったりする。
これは、町家に限らず、お寺でも見られることだ。現に私のお寺である円常院でも東北の角は葛石で囲い、清潔にするようになっている。南西の角は、水洗の配管を避けて、違うところに流している。ということは不浄のものはこの方角につくってはいけないという慣習があるということ。 トイレや台所や風呂場はこの位置には設けない。古いところではトイレや風呂場などは母屋と離してもうけられている。ただし、すでに新築してしまってから家相が悪いといわれても変更できないこともあって、そのためにあるのが方位除けのお札だ。生まれ月や年も自分ではどうしようもない。暗殺剣だとか大殺界だとかいわれても防ぎようがない。それを神や仏は捨てておかないということだ。もちろん、円常院でも各種お札を授与して、災難を除けていただく。

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むくり屋根/mukuriyane

京都の町家の屋根は、上から眺めると少しだが、丸みを帯びていて、弧を描いているよに見える。もちろん、見えるだけでなく、そのように作られているのであるが、それは気象条件を加味して作られているということだ。
本当なのかどうかわからないが、雨を受けるときには、なるべくゆっくり受ける。
受けた後で、弧を描くように滑り落ちるようになっている。
これに対して最近の近代建築は、ただ均等に斜めであることが多い。
瓦は、一枚一枚の間に隙間があるので横殴りの雨が降れば、隙間からしみ込んでくる。この横殴りの雨が京都は少ないらしい。京都の雨はしとしと降るらしい。確かに古都には、しとしと振る雨が似合う。本当なのだろうか。福井さんに聞いてみたい気もする。ゲゲゲの鬼太郎の原作者水木しげるの漫画に「影女」というのがある。京都が題材だ。「なんせ、天平の時代から建っている家もあるらしい」などと嘘の表現もあるが、信じてもおかしくないような古い家並みも残っている。

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一文字瓦/ichimonjigawara

京都の町家の軒先を見てほしい。何も彫り物や紋がついていない瓦で、下部が一直線になっている独特の瓦が一文字瓦である。
厚さは9センチから10.5センチぐらい。室町あたりの商家では極端に厚みのあるどっしりしたものもある。これも京都の町家の重要な外観デザインの一つである。
この一文字瓦は、葺くのも難しいが、車などが瓦の角に当たったりすると、全体にその衝撃が伝わり、歪んでしまうので、瓦屋さん泣かせの代物だそうだ。
最近では、饅頭瓦といわれる、下部が波形になった瓦を使用するところが多い。
瓦といってもその歴史は古く、産地も種類もたくさんある。
代表的な瓦の産地は淡路、三河、京都、 である。
また、寺院や神社の鬼瓦など特殊なものを作る職人さんは、その数が減少しているため、需要の少ないものは、値もたいそうするので、古いものを修理して使うこともある。
京都で唯一といっていい鍾きさんをつくっている瓦屋さんに浅田製瓦店がある。ここでは、寺社の鬼瓦などの製作も行っている。見学やお話をお聞きすることが出来るが、あらかじめ電話でアポイントメントをとること。
浅田製瓦店 浅田晶久 住所 京都市伏見区
電話

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卯建/udatu

家と家の仕切りのあたりに一段飛び出した形で盛り上がっている。
これは、境界線を表示するとともに、煙出しから出る火の粉を防ぐ防護壁の役目を担っていた。
装飾的な意味合いもあって、防護壁にしては低すぎるが、これも京都の町家の重要な外観デザインといえよう。
よく、自立できない場合や一人前になれない場合に「うだつがあがらない」という言葉が使われる。「うちの主人はうだつがあがりませんのよ」といえば、出世もままならないで、奥さんにイヤミを言われている疲れたサラリーマン亭主の姿が思い起こされるのは、悲しい現実か。
つまり、うだつをあげることが、自立ということであったらしい、それが転じてこのような転訛が起こったのだろう。そうすると、うだつが誇示するところは、長屋住まいから一戸建ての家を購入したり、新築したりすることの意味で、境界線を造ったのが始まりなのかもしれない。



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屋根看板/yanekanban

卯建も面白い町家の形であるが、これは、威風堂々としていて、まるで、何かお祭りしてあるようだ。鍾きさんでもこのようにお祭りしているのを見かけたことがないのにたかが看板にこれだけ凝るとは。
しかし、商家にあっては、店の看板と暖簾は、非常に大切にされたようで、今でも「店の看板に傷がついた」あるいは「暖簾に傷をつけた」などという言葉がまかり通るところを見ると、商家のシンボルであることは、今も昔も変わらないということか。
商品よりも看板に凝ったほど、派手な看板合戦をしたようで、所司代から派手な看板を禁止する御触れが出されたこともあるようだ。何と、粋な話であろうか。総けやき看板、破風造り、字は金箔押し、七宝の釘隠し、下地は総漆螺鈿蒔絵なども使用されたらしく、江戸時代の日本は、封建時代であるのにもかかわらず、商家台頭の資本主義そのものであったようだ。明治維新にドイツ憲法を取り入れ、西洋化を図ったが、経済そのものは何も混乱しなかったのがその証拠である。
今のような、目立てばいいという周囲を考えない看板とは一味違う。最近の看板は、ブリキにペンキ塗り、あるいはピンクの電飾と景観になにも配慮していないものが多い。
車窓から見る田園風景に点在するトタンの農機具小屋が景観を破壊していると思うのは私だけであろうか?ヨーロッパの田園風景にトタン小屋はない。。。。



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軒吊り看板/nokizurikanban

これは、酢を入れる容器の形をした木製の看板である。
今も現役で酢を作っておられる「酢の孝太郎さん」の本家、林忠次郎商店の看板である。
孝太郎さんの工場は、この近くにあり、現在も良質の地下水がなみなみと湧き出ている。
鞍馬口通知恵光院角にある手打ち蕎麦屋さん(写真nokituri-2)や3軒隣のわらびもち屋さん(写真nokituri-3)もここの地下水を利用させてもらっている。
孝太郎さんの工場の西隣に改築された町家がある。傷んでいたものを修理されたもので、なかなか楽しい空間になっている。(写真nokituri-4)
もう、市中に残っている軒吊り看板はほとんど見かけない。(写真nokituri-5.nikituri-6.nokituri-7.nokituri-8)



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桟瓦屋根/sanngawarayane

最近では、ビルの屋上に上がってもこのような風景を見ることは少なくなってきている。
カメラのアングルをどの方向に向けても町家ではない建造物が目に入る。
景観問題は、やはり行政の方向が明確に定まらない限り、進展は不可能のように思える。
この写真も皮肉なことに高層マンションから写したものである。
京都以外の都市でもそうだが、昔は、板葺や茅葺き屋根で、瓦は載っていなかった。元禄年間(1688-1703)頃になって、市中に瓦葺きの町家が建てられるようになった。
現在では、瓦は三河や淡路といった産地物が多いが、当時は、京都の東山周辺や大津、近江八幡など京都近郊から納入されたようだ。この東山山麓で焼かれた瓦を「桟瓦」という。
町家は軽便な「桟瓦」、寺社や土蔵は重厚感のある「本瓦」を好んで用いた。
色は、どちらも鉛色で、他の色瓦は使用しない。そのため、丘の上や小高い所からは京都市中の規則正しい瓦の広がりが見渡せる。
西陣の北側に船岡山という小さな丘陵地がある。織田信長を祭った建勲神社があるところだが、見渡しがいいため、戦国期など京都の政変のたびに恰好の陣地となったところである。有名な竜安寺石庭も今は木々が生い茂っているので見晴らしは悪いが、市中が一望できたという。
蛇足だが、京都は等高線が北側が高く南側が低くなっているので、北山から市中を眺めると大阪方面まで一望できる。ちなみに東寺の五重の塔の最高部と北大路通は同じ等高線上にあるという。夜景のすばらしさも含めて、一望できる名所は、京見峠、将軍塚、比叡山(車可)、大文字山、竜安寺北側の山の中腹にある天皇陵(ハイキングコース)などがある。



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板葺屋根/itabukiyane

昔は瓦屋根ではなくて板屋根であったのだが、江戸時代ごろには、瓦屋根が流行し、定着していったようだ。
現在では、住居としての板屋根は存在しないが、小屋根とか神社仏閣の塀などにその痕跡を見ることができる。
この写真は塀の一部であるが、お地蔵さんの祠や神社の祠などにも見られる形である。
祇園祭りの鉾町の町会所にも板屋根が葺かれてあるらしいので、探してみるのもおもしろいかもしれない。



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煙出し/kemuridasi

町家の屋根の上に突き出したもうひとつの小屋根といおうか、写真を見ていただくのが一番早い。
台所などの煙を外に出す装置であるが、粋なことにちゃんと瓦葺きの小屋根が乗っている。
煙出しの下には、台所があるということだ。
町家だけでなく、大きなお寺の方丈と呼ばれる建物にも煙出しが見られる(写真kemuridasi-2)。これはお寺だけあって巨大で立派であるが、用途は同じである。



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鍾馗/shouki

京都の町家は、中二階建ての町家が多く、一階の屋根と大屋根の間の玄関の上あたり、道に面してなにやら厳めしい瓦の置物が設置されている。
これが、鍾きと呼ばれる魔除けの置物である。
鍾きは、中国の唐の都長安(現在の西安)の物語に起因する魔除けで、玄宗皇帝の夢の中で、楊貴妃の宝物を盗もうとした小鬼を鍾きが追い払い退治した。その夢から覚めて後、玄宗皇帝の病が癒えたという。この小鬼は、邪気とみられ、それ以後、邪気を払う魔除けとして、信仰された。
日本には、いつの時代に入ってきたのか定かでないが、道教や儒教の教えが浸透する江戸時代に鍾き信仰がみられる。
京都のいいつたえは、文化2年(1805)に大きな鬼瓦を据えた家が建った。すると、向かいの家の娘が原因不明の高熱を出して寝込んでしまった。どのような手当をしても手当の回なく、困り果てていたところ、陰陽師に観てもらったところ、原因は、向かいの鬼瓦にあるらしい。鬼瓦によって跳ね返された邪気がこちらの家の中に入ってきているのが原因だということ。さっそく、京都は深草の伏見人形師(00ページ参照)に頼んで、邪気払いで効果のある鍾きさんを焼いてもらって、睨み返しとして安置したところ、たちどころに病気が平癒したというもの。この物語は、複数言い伝えられており、主人公が医者の娘であったり、女房であったりするが、大筋は上記のようなものである。
ちなみに私が調査した限りでは、京都市上京区には、約1000体の鍾きさんが残っている。その分布にも特徴があり、お寺や神社など鬼瓦を設置してある場所の向かい側の家や三叉路やT字路のような行き止まりに多くあり、また、一軒が設置すれば、負けじと周辺の家も祭るらしく、集中してみつけることができる。
現在では、鍾き信仰は、廃れる一方であるが、神がその地位を追われ、妖怪としてその名を留める過程がここにも現存しているといえよう。民俗学研究者にとっては古い風習がなくなってゆく京都は恰好の研究テーマかもしれない。
廃れる背景には、信仰の母体となる神社やお寺がないことがあげられる。そのため、私のお寺では、新しい鍾き尊の御祈祷開眼と御札、古い鍾き尊の奉納も受け付けている。
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また、現在鍾き尊は、京都・三河・淡路の産地で製作されている。
まだまだいろんな型が存在していて、鍾きさん観光ツアーなど楽しんでみてはいかが。
 



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