きっかけは布袋さん

布袋さんの出物ありまっせ



布袋さんは、実在した中国の禅僧だが、日本では、七福神の一人として崇められている。それが京都を中心に、台所の神様として、祀られるようになった。別名『荒神様』とも呼ばれている。
仏教の僧侶が神様となって、神社やお寺に祀られることじたい、滑稽なことだが、日本では、当たり前のように受け入れられている。本尊は別にあるのに、別社勧請といって、別にお社を建てて、境内に祀った神様や縁起物の方が有名になって、通称で呼ばれる神社仏閣も多くある。
特に京都という土壌は、神仏習合の先進地域で、ちょっと玄関を観察すれば、祇園さんの粽、五大力さん、茅の輪、元三大師の御札、菩提寺の護符、氏神さん、招き猫などなど、至る所に神仏や縁起物が祀られている。それでもお互いけんかをしないところがほほえましい。
さて、布袋さんだが、京都の古い台所『おくどさん』には、だいたい七体ぐらい祀られているのが普通だ。そして、榊を供え、灯明をあげる。
一九九四年春、近所の改築現場で大工さんが真っ黒に煤けた大きな布袋さんの土人形を指さして
「これ、ほかす(捨てる)わけにもいかず、困ってますねん」と相談された。
「なんなら私のところお寺ですから預かりましょうか?」
「それは願ってもない」ということになり、さっそく持って帰って、悦に入っていたのだが、なんと、次の日に大工さんがすまなさそうな顔して、「すんません。あれ、ほかすんとちゃう(捨てるのとちがう)かったらしいです。返してもらえますやろか」とやってきた。
「また、こんな場面に遭遇したら、奉納してください」
と名刺を渡したのがまずかった。いったん手に入ったものを白紙にもどすということは、誰でも経験したことがあるだろうが、かなり辛いものがある。
それからというもの、布袋さんにとりつかれたように、代替品でもいいからと、骨董店や縁日を回っては、買いあさる毎日が続いた。色の剥げた、煤で真っ黒の、埃だらけの布袋さんを見ると、わくわくしてしまう。尋常ではない。
世間は狭いもので、いつの間にか京都中の骨董屋の知るところとなり、自宅に電話がかかってくるようになった。
「布袋さんの出物ありまっせ」
と、まあ、自分が蒔いた種だから、しかたがないが、足元を見て商売をする。自業自得というものだ。
はたっ!と気付いた。私の家はお寺である。奉納を受付けたらいいではないか。捨てるのに困っている人は大勢いるだろう。古いものを処分するのは気が引けるという人も大勢いるはずだ。
予想どおり奉納を受付けると、念願の布袋さんはもとより、大黒さん、恵比寿さんなど色々な土人形、木彫り人形などが集まってきた。
あれよ、あれよという間に布袋さんだけで百体を突破。置き場所に困るという事態が発生。その中に鍾馗様が混じっていたのである