京都という町(京都通り名歌)


京都という町(京都通り名歌) / お地蔵さん / 鳥居 / 洛中本山 法華宗寺院


特集1 京都という町/A CITY OF KYOTO



京都の街は、基本的に碁盤の目状態になっており、東西南北で交差する道路の名前を記入すれば、だいたいの住所がわかるようになっている。といっても、京都人ならいざしらず、地方の人にはわかりずらいようだ。この地方の人にわかりにくい通り名は、歌になっていて、覚えやすいようになっている。たとえば、横の通りは、丸竹夷二押御池、、、(まるたけえびすにおしおいけ、、、)
縦の通りも覚えやすいように歌になっているが、現在では街が広がり大きくなっていて中京区と下京区ぐらいしかカバーできていない。
 元々、京都の街は、中国の長安(西安)をモデルに平安京のころに出来たもので、上京と下京ぐらいしかない小さいものだった。それを現在の規模にしたのが豊臣秀吉である。約四百年前のことだ。西陣は、平安京のグリッドの上には乗っていなくて、秀吉の時代にようやく都の西北部に位置するようになる。
 現在では、西陣というと、北は鷹峯から南は丸太町,西は北野神社から東は烏丸通までというおそろしく大きな範囲である。これでも小さいと言われるかも知れない。
応仁の乱で西軍の将であった山名宗全が陣を構えたのが縁で西陣というようになったらしいが、現在では、東軍の細川勝元の陣営も西陣地区に含まれてしまっている。戦では引き分けたが、山名宗全は、名を残したということか。


例として、通り名歌を記しておく。(京都のmapを見る)


横 : 丸竹夷二押御池姉三六角蛸錦四綾仏高松万五条


(丸太町通、竹屋町通、夷川通、二条通、押小路通、御池通、姉小路、三条通、六角通、蛸薬師通、錦通、四条通、綾小路通、仏光寺通、松原通、高辻通、万寿寺通、五条通)


「まる、たけ、えびす、に、おし、おいけ、あね、さん、ろっかく、たこ、にしき、し、あや、ぶっ、たか、まつ、まん、ごじょう」
縦 : 寺御幸麩屋富柳堺 高間東車屋町 烏両替室衣 新町釜座西小川 油醒ヶ井堀川の水 葭屋猪熊黒大宮 松日暮に智恵光院 浄福千本はては西陣


(寺町通、御幸町通、麩屋町通、富小路通、柳馬場通、堺町通、高倉通、間之町通、東洞院通、車屋町通、烏丸通、両替町通、室町通、衣棚通、新町通、釜座通、西洞院通、小川通、油小路通、醒ヶ井通、堀川通、葭屋町通、猪熊通、黒門通、大宮通、松屋町通、日暮通、智恵光院通、浄福寺通、千本通)


「てら、ごこ、ふや、とみ、やなぎ、さかい、たか、あい、ひがし、くるまやちょう、からす、りょうがえ、むろ、ころも、しんまち、かまんざ、にし、おがわ、あぶら、さめがい、ほりかわのみず、よしや、いのくま、くろ、おおみや、まつ、ひぐらしに、ちえこういん、じょうふく、せんぼん、はてはにしじん 」

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お地蔵さん/A guardian deity of children



京都では8月のお盆が終わった後の24日ごろに地蔵盆というお祭りをする。
これは町内単位で行われる子供のための無病息災、子育てのお祭りである。基本的に各町内にお地蔵さんがある。京都の町内は、規模が小さく、60世帯もあれば多いほうだ。
最近では、土日に行われることが多く、お盆が終わった後の土日に京都の町中を散策すれば、あちこちで地蔵盆の行事を見ることが出来る。


 少子化と核家族化によるドーナツ化現象で子供がいない町内もあるが、行事は続けられている。行事を続けることも大変だが、それにもまして大変なのがお地蔵さんの維持管理だ。このお地蔵さん、どこのお寺にも属さず、どこの宗派にも属していない。それなのに立派なお堂に収まっていたり、祠にお祀りされていたりする。お花や線香のお供え物は、町内の信心深いおばあさんのボランティアだ。本人はボランティアだとは思っていないところが、最近の奉仕活動と違うところだ。世話をするのは当たり前、日常生活の一部になっている。そのため、感謝状を贈られることもなければ、文句も言わない。
 さて、8月の後半の土日は京都の町中は地蔵盆一色になる。ここの角を曲がっても、あそこの角を曲がっても、提灯がぶら下がり、テントが設置され、小さい道などは通行止めにさえなっていて、歩行者天国と化している。
提灯に染め抜かれた文字は、何故か大地蔵菩薩以外に大日如来や子育て地蔵もある。これは、町内の祠に祀られている本尊が、3つも4つもあって、どれがお地蔵さんでどれが大日如来かわからなくなっているからである。町内によって日程は異なるが、最近では1日のところが多くなっている。


 地蔵盆の会場となる場所は、町内の役員の家の表の間であったり、ガレージであったりする。格子戸をはずすと、会場に早変わりだ。そこで町内の子供たちは一日中遊ぶ。おやつの時間やくじ引きの時間があって、楽しい時間を過ごす。
どこの宗教にも属していないが、仏教の行事であるので、近くのお寺さんがお経をあげに来る。そして、大きな数珠回しをしたり、お説教を聴いたりもする。ここに長い間培われた京都の自治組織のパワーを見る思いがする。

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鳥居/A gateway at the entrance to a shinto shrine



この鳥居は、どういうわけか、暗いところ、人が少ないところ、路地裏などでよく見かける。
そして、あまり目線の高いところにはなくて、うつむきかげんに下を向いたときに目に入るような高さ、だいたい地上20センチから30センチぐらいのところに釘で打ちつけてある。
特に祇園や木屋町という飲み屋街に多く見られる。
小さいものであるが、効果てきめん。
 さて、ここまで話すとおわかりだろう。そう、立ち小便防止の標識みたいなものだ。


元々は不浄除けの風習であったのだろうが、いつの間にか、立ち小便防止の標識となってしまった。現在も伏見稲荷で授けてもらえる。

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洛中本山 法華宗寺院/The head Temple of the Hokke sect at Rakuchu

どういうわけか、応仁の乱などで中断してしまっていた祇園会を復興したは、法華宗徒であったという。法華宗徒といえば、日蓮を宗祖と仰ぐ宗派で、世間では激しく強い宗派であると誤解されているが、当時の京都の7割が法華宗徒であったといわれるぐらい商家や芸術家に支持されていた。そのおかげで全国に吹き荒れた一向一揆の被害を被らずにすんだというエピソードまである。
当時の公家の日記には、題目の声がちまたにあふれていたと記述されており、戦乱の焼け野原に建つものは法華寺院ばかりだとも。そして、極めつけは、一向一揆を迎え撃つ法華一揆の行列は、あの織田信長の軍隊よりも華麗で、重装備を整えており、天皇までがその行列を見物したともいわれている。
どこに市民を引きつける魅力があったのかというと、法華経の教えは、徹底的な現実肯定であったこと、すなわち、現実逃避としての西方浄土を否定したこと、そして、自我の表現を徹底的に追求肯定したことにある。
自我を表現する芸術家、ご飯も食べられないような時代に絵画を職業としている者たちの後ろめたさ、右から左に商品を動かすことで利を稼ぐ商家のうしろめたさ、社会を生きてゆく上でのいろんな矛盾は、そもそも社会の構造にあるのであって、職業がいやしいとか、いけないという問題ではない。
国民がご飯に困らないような世の中、飢饉や疫病の起こらないような世の中に改革してゆけば、もっと自由に生きられるのではないか?と説いたのが法華宗であったのである。
そのため、うち続く戦乱や飢饉で生きる意欲を失っていた人々が、法華経の説く革命を支持したのは当然の成り行きかもしれない。
織田信長は、天下統一の妨げになる各宗派を撃破したが、法華宗には特別の処遇を行った。それはあめとむちである。
時には、他宗との法論を行わせ、わざと法華宗が負けるようにしくんだりして、信長の怖さを植え付けたが、一方では、とても優遇した。それは信長が擁立した足利将軍の仮屋敷を本國寺にしたり、信長の最後が本能寺であったことや、長男が妙覚寺に宿泊していたことからも推察される。
それは何故かということを誰も書いていないが、日本の歴史を宗教ぬきに見ている歴史学者には、わからないことだろう。
美濃のマムシといわれた舅の斉藤道三をして、先見の明ありと言わしめた信長の最大の武器は鉄砲であったことを思い浮かべてもらいたい。
鉄砲は、最初、種子島に伝来した。ここと屋久島、口のえらぶ島は、全島法華宗であった。もちろん、最初から法華であったわけではなく、元々律宗であったのを先師たちの大変な努力で改宗させたのである。
信長は、同じ法華宗でつながる種子島、堺の商人、京都の商人、京都に21本山を有する法華宗を最新兵器および海外情報収集のために利用していたのである。
つくづく信長というのは天才であったと感心させられる。
もしも信長が生きていれば、というのは、ありえない空想ではあるが、秀吉のように朝鮮半島に進撃して、泥仕合を演じるようなことはしなかったであろう。
きっと大航海時代が訪れていただろうと思われる。
なぜなら、秀吉や家康は、貿易と共に入ってくるキリスト教を中南米やインド・アフリカ諸国を占領するヨーロッパ文明の手先と受け取っていたし、それもある面では正解なのであるが、信長は、逆にヨーロッパに攻め入ることさえ考えていたふしがある。
宣教師が献上した地球儀をながめ、日本は小さい国よとつぶやき、ヨーロッパの話をしきりに聞きたがったという。


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