手打ちそば屋開業ドキュメント

蕎麦屋さん奮闘記


◎兼井さんは、某広告会社の制作畑でサラリーマンとして勤務していた36歳。昔から「ものづくり」への関心が高く、職人の世界にあこがれていたところ、岐阜で感動的とも言える蕎麦に巡り会い、そこでの蕎麦打ち体験を通して「いつかは自分も蕎麦打ちに」と決心したのが5年前。趣味の蕎麦打ちを経て98年末、脱サラしました。退職後、修行に精を出しながら出店の地を求めて生まれ故郷の関西方面で場所探しをしていたところ、町家倶楽部の存在を京都新聞で知り、さっそく倶楽部ハウスを訪問。最初に町家倶楽部に来た印象は、古い織り工場の事務所を見て、大丈夫かいな?という半信半疑な印象でしたが、応対して下さったスタッフやボランティアの学生さんの話を聞くにつれ、そのスタンスや町家倶楽部のコンセプトに共感を覚え、自己紹介と町家への思いを記入するシートに記入して、お見合い申し込みをしました。


◎さていよいよ物件見学の当日。8月21日、真夏の炎天下、13時に町家倶楽部に集合。外観写真でしか見ることのできなかった希望の物件と初めて対面です。町家倶楽部のコンセプトや町の雰囲気などを兼井さんから事前に聞いて、同じく興味を持った奥さんと一緒に訪れました。事前に小針さんから近隣の迷惑にならないように、内部を覗くのはほどほどに、クルマに注意して、などの諸注意を聞き、いざ町家見学へ。折しも、この日はNHKのTV取材もあり、撮影クルーとともにぞろぞろと移動。程なく着いた物件の場所は、鞍馬口通り智恵光院の角地で商売にはぴったりな感じ。通りは昔の商店街で、往事の活気はないものの人通りもあり、兼井さんは一目で気に入りました。兼井さんが残念だったのは、その日は内部を拝見できなかったこと。貸し主の大家さんのOKがでないと中を見られないのがツライところでした。



◎複数の申し込みの中から、大家さんが興味を持たれたのが兼井さんでした。さっそく小針さんを通して、『お見合い』の日程が決まり、9月2日大家さん小針さん同伴で内部を見せいていただけることになりました。大家さんは京都でも有名なお風呂屋さん「船岡温泉」の経営をされており、古いものをできるだけ残していきたいというお考えの方。船岡温泉は、明治時代の戦争をモチーフにした透かし彫りの欄間などが脱衣場に展示してあり、露天風呂まで備えた名物温泉です。京都の人なら一度は訪れているのではないかと思われるほど有名です。大家さんは、京町家をそれらしく、そのままで住んで下さる方に来ていただきたいとのこと。同じく古いものが好きで、大切にしたいと考える兼井さんと意見が合い、めでたく『お見合い』成立。兼井さんの奥さんも、町家の独特な作りに感心して「たとえば階段したの暗がりとか、そういう秘密めいたところが子供の思いで作りにもいい」と言っていました。これまでマンションや団地の暮らししか経験したことのない兼井さんも、そういうところがとても気に入ったようです。裏庭に生えている2階の大屋根まで届く大きなバショウ(バナナ)の木も、京町家には不釣り合いではありながら、夏の日差しをいっぱいに浴びてきれいな緑色の影を落としていたのも印象的でした。大家さんは、兼井さん夫妻の話を聞いて、その場で借りていただけるとウレシイという返事をされて、一週間ののちに兼井さんも改装や資金計画などを経て、正式にお借りする契約となりました。「そのまま」が良いとはいえ、さすがに築後70年近い貸家のこと。内部は相当にいたんだところもあり、改装というよりは「復元」工事の了承を求めたところ、お考えはよくわかるので、兼井さんの好きなように直してもらってもいいという返事をもらい、10月13日、工事が始まりました。工事には、同じく町家倶楽部を通して西陣に家を借りた大工の吉坂さんを小針さんに紹介してもらい、工事は吉坂さん、職人の高田さん、兼井さんの趣味のお蕎麦のお客さんで山本さん(主に設計担当)も名古屋から来られ、施主の兼井さん自らも金槌をふるうというカタチで進行中。11月末の完成に向けて工事が進められています。

◎さて、工事が始まったのですが、改装の基本は「破壊」から始まります。築80余年という物件は、以前長年にわたって板金やさんが住んでおられたということもあって、化粧の上に化粧を重ねるという「修理」のあとがたくさんありました。たとえば、壁は町家らしく真壁(柱が見える壁のこと)にしたいということで、各室にはられたベニヤを剥がしました。出てきた建築当時の壁は、真っ黒にすすけ、だらしない下っ腹のように膨らんでいました。たとえば、店舗部分(一階)の天井は抜いてしまって、二階の床を見せようということで化粧天井を剥がすと、その下からさらに三重に亘って化粧天井が現れました。めくってもめくっても、元のものが出てこないという状態がそこかしこにあるのです。

改装工事とは名ばかりで、来る日も来る日も「こぼち」の日々。出たガラ(廃棄物)は、軽トラックで市の処理場まで運ぶのですが、(処理業者さんに頼むと経費がかさむのです)その往復だけで10数回にもなりました。 ここのところが大事なのですが、「こぼち」は蟻地獄に似ています。つまり、部分的には済まないで、「ここをやるならそこもやろ」という気になって、「そこまでやるならこれはおいとけん」でどんどんその範囲が広がるのです。
いかにもカッコいい「チルチンビト」誌で見るような、大工の職人仕事を夢見ていた兼井さんは、いささか辟易。大工の吉坂さん達も1週間もすると疲弊気味で、「破壊の上に創造があるのだ」を合い言葉に、いつ来るとも知れない創造の日を夢見て、日々は過ぎてゆくのでした。

◎ここで、兼井さんのおうち兼お店の改装の概略をご紹介しておきましょう。
大きな特徴は、2軒の隣り合った家(家主さんは同じ方なので、了承をいただき)をぶち抜く計画です。大きな家の方は店舗と住居。小さな方の家は、蕎麦の打ち場や製粉の道具置き場、二階は物置として使おうというものです。
大きな方は、まず一階部分がそば屋の店舗。客席部分は京間の6畳二間分で、厨房は既存の台所部分を改造します。縁側に当たる部分は、敢えて屋外として濡れ縁をはります。
二階は住居ですが、部屋数は5部屋。予算の関係上できるだけ現状維持で、とはいいながら、5人家族の兼井さん一家が使いやすいようにということで、天井を抜いて、屋根裏にロフトを作ったり、ベランダを広く取ろうということになりました。

◎「天井を抜いて」と書くと、たった6文字ですが、これがまずたいへんで、ホコリとの戦いです。手伝いに来てくれていた「ベロのパン」の水木さんは(同じく町家を改造してパンを焼いている女性)、目深にかぶった毛糸の帽子にバンダナでマスクという、目だけが出ているそのまま銀行を襲撃できそうな出で立ちなのですが、それでもなお半日もすると鼻くそマックロという状況です。おまけに数十年という年月を経た釘は、じゃかじゃかに錆びていて、ちょっとやそっとじゃ抜けません。悪戦苦闘は、のべにして10日以上に及びました。

◎さて、苦労のかいあって、創造の日々が始まりました。(厳密には、破壊しつつ創造するというグラデーション的工事が最後まで続くのですが・・・)創造の第一歩は、「こけ」の修正です。築80年の家は、柱が南西方向に傾き、間口の軒を支える柱は、数センチも沈んでいました。(当時の建築は、今のようなコンクリートの基礎などなく、基礎があっても、いびつなカタチの自然石に柱のおしりが乗っかっているという程度。2階で寝転がると、傾いている方へ転げそうになるといっても決して大げさではない状態でした)「よし、ジャッキで上げてみよう」という吉坂親方のとんでもない発案で、ジャッキアップが始まりました。沈んでいる柱の上の梁にジャッキを当て、じわりじわりと上げるのです。ミシ・・・ミシミシという音とともに、柱が少しずつ上がります。ゆがんでから塗られた壁が、ぼろぼろ落ちます。「もう少し・・・はい休んで、今度は反対側・・ハイもう少し上げて・・・」親方の指示の元で、左右の柱のジャッキが少しずつ上げられます。
結果、実に2寸余り(7センチ)も柱を上げることができました。「し、信じられない」が兼井さんの感想でした。一方で、こんなことができるなら、何でもできるやんか、とその後の工事に向けて、大きな確信と希望が湧いたのもこのときでした。

◎このあと、あまりのホコリに現場で寝袋で寝泊まりしている兼井さんを見かねて、親方の誘いで、兼井さんは親方の自宅に居候することになるのですが・・・詳細は次号にて。

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